鶴田バレエ学院の系譜

鶴田バレエ学院 会長 鶴田溢子

鶴田バレエ学院 会長  鶴田溢子
私の母、鶴田冨貴子は、当時ロシア革命のため日本に亡命していたロシアのバレリーナ「エリアナ・バブロア」を博多に招きクラシックバレエの指導を受け、博多の地にはじめて、クラシックバレエ発足のうぶ声をあげました。その後、舞踊文化の普及とその斬新な創作作品を次々と発表して、沢山の人達を育てました。満3歳より母の指導の下でバレエをはじめた私は、母の意志を受け継ぎ自分自身のバレエの研修はもとより沢山の人材を今日迄育ててまいりました。

鶴田バレエ学院 会長 鶴田溢子

バレエの喜びと素晴らしさを伝えつづける。
今年(2014年3月)理事長を後進にゆずり、大きな節目を迎え今後の人生をどうやって生きて行くのが私らしいのか目下、手探り状態です。 ”雀 百迄 おどり忘れず”のことばにあるように3歳から始めたバレエは私の中でいつまでも生きつづけることでしょう。今後はバレエの喜び素晴らしさを皆に語り、第一線から身を引いてもバレエで生かされた生涯をありがたく思い、後につづくたくさんの人達の幸せと発展を祈っていきたいと思っています。そして、地元に育ったバレリーナが一番に活躍してほしいと心より願っております。

1921年

春、福岡市大豪端で福岡市日日新聞(現西日本)新聞が主催する「コドモ博覧会」が催された当時流行の先端を行く少女歌劇「花咲爺」「人形の森」「蛍の精」などが 地元の創作で初めて演じられ、観客を驚かされ夢中にさせた。福岡バレエの第一歩は、この時に踏み出される。 ここでバレエの夜明けを眺めると

  • 1911年 明治44年東京帝国劇場で創作歌劇「熊野」が初演される
  • 1914年 大正3年「宝塚少女歌劇」がスタート
  • 1917年 大正6年には「浅草オペラ」の誕生となる

この時、福岡で一粒の種をまいたのは井上胡蝶(本名・才蔵 昭和11年68歳で逝去) コドモ博覧会開催を前に「何か新しい規軸を」という声にこたえ、娘たち6人の中から 冨貴子(14歳)を選び、同じ年頃の少女10余人を集め特訓。 メルヘン的な自作、自演出のステージを出現させたのである。

1922年 大正11年11月、次いで井上胡蝶は市内須崎に「博多少女歌劇養成会青黛座」を発足させる。
1923年 12年夏 養成会幹部生徒たちによる「青黛座」は当時博多随一の九州劇場で旗揚げ公演する。 演題は名産博多織の始姐を扱う歌劇「満田弥三右衛門」(胡蝶、否子合作)他。 中心スターは吉野花子(井上冨貴子の芸名である) 他、望月照子、若水清子、筑紫峯子、宝塚歌劇を意識した名前が連なった。 初演大成功に勢いを得た一座は全国公演に打って出る 途中9月1日浜松で突然舞台がぐらぐら揺れた関東大震災の発生だった 。当時、ロシア革命のため日本に亡命していたロシアのバレリーナ 「エリア・パブロア」を博多に招き入れクラシックバレエの指導を受ける。
1927年 昭和2年2月、井上胡蝶は持てるすべてをつぎこんだが解散を決意する。 ひとつには座員が適齢期のため、結婚による退団者が相次いだのも致命的だった 吉野花子も井上冨貴子にもどる。 少女スターも二十歳に成長しいずれ家庭を持つ日のためと花嫁修行にいそしんだ。 そんなとき、冨貴子に友楽館(東中洲)から映画主題歌を伴唱して欲しいという依頼が舞い込む。父・胡蝶の許しを得てスクリーンわきで歌った。
1928年 9月、日本放送協会(NHK)福岡演奏所の開設にはいち早く出演するよう声がかかった。 この年10月、冨貴子は結婚し、鶴田姓となった。
1929年 夫・溢三郎と協力し「福岡童心芸術協会」を創設、舞踊、歌劇、バレエ、タップダンス の指導育成に父親譲りの才能と情熱をそそぐ。
1929年 博多座にてミレニアム記念公演
1932年 3月、溢三郎、冨貴子はさらに研究を深め指導するため「鶴田舞踊研究所」と名を改め励み抜く 福岡民謡「黒田節」(筑前今様)を振付し演出したのも記録に値する。 こうして昭和9年に至り再び歌劇は花ひらく。 鶴田舞踊研究所は請われるまま福岡県内の久留米、大川、榎津、飯塚に支部を設ける。
1937年 しかし政局は暗転する。 昭和12年7月、日中戦争開戦。 それでも8月、福岡日日新聞主催「童謡舞踊の夕」に鶴田舞踊が出演したが、大陸戦線の拡大につれ戦時色は 濃く国民生活は年を追って圧迫されていく。
1941年 泥沼の戦局はさらに太平洋戦争となった。 溢三郎の手記には「戦況は厳しく学科動員、女子挺身隊、男子45歳まで召集され歌舞音曲は禁止され 舞踊も解散。20年敗戦まで苦闘、筆舌に尽くし難い」とつづる。そんな暗く絶望的な日々にも冨貴子はいつか訪れる平和の朝を信じ、愛娘たちの訓育は怠らず続けた。 そのひと筋の糸は彼女にとって消してはならない暗夜の灯。
1948年 そして待ちあぐんだ日が訪れる。 まだ大空襲による焼け跡が市内にあちこち残るなか、鶴田舞踊は 早くも再建の名乗りを大名にあげる。

これら4人の娘は平和の風に飛翔し、舞い続ける。 長女・美保子(ツルタバレエ芸術学校主宰)、二女・溢子(鶴田バレエ学院主宰)、 三女・貴美子(鶴田貴美子バレエ・アーツ主宰)、四女・睦子(鶴田バレエミュージックアーツ主宰) さらに溢子の長女・美佳子も国内外の研鑚を経て優れた才能と情熱を発揮している。 あの日、井上胡蝶がまいた一粒の種子は根を張り、蕾は「鶴田バレエ」の大輪の花となり咲きかおっていく